〜函館の旧公会堂/Public Hall@Hakodate,Hokkaido〜
ちょっと色々とウェブ見ていたんですが。
佐々木只三郎に関して、何だかいろいろありますねぇ〜
昔は殆ど何も無かったので、少しは認知されたのかな?
うむ〜、じゃあ、ここいらで高斗的佐々木只三郎をいっちょまとめてみようかと。
今回は略歴、と言う事で年表をのせてみました。
★佐々木只三郎略歴★
天保4年(1833):佐々木源八の三男として誕生(長兄は勝任、次兄は主馬、弟は源四郎)
天保13年(1842):会津藩校日新館に1年送れて入学(特例)
弘化元年(1844):弱冠12歳で會津五流の「神道精武流」免許皆伝。この頃から小太刀に目覚めたと言う
嘉永6年(1853):兄の勝任(手代木家に養子入りしていたので手代木直右衛門と名乗っている)に従い、江戸湾警備に出る(房総半島及び品川お台場)
万永元年(1860):親族で旗本の佐々木矢太夫の養子に入る。 この頃講武所に務める?
文久3年(1863):
1月ー 浪士組取締並出役に任ぜられる
2月 ー江戸出立、京都に入る
3月12日ー兄の手代木に浪士組のうち京都に残った近藤、土方たちを會津藩御預としてもらう事を依頼、自身は清河八郎と共に江戸に戻る
4月13日ー江戸麻布一橋にて清河八郎を暗殺
元治元年(1864):
4月24日ー京都見廻組が幕府より通達される
5月11日ー蒔田相模守と共にこの頃江戸を出立?
6月5日ー池田屋の変(新撰組)、近江屋の変(見廻組)
7月19日ー長州による禁裏(二条御所)襲撃事件「禁門の変」に見廻組として参戦、残党兵力を一掃
慶応元年(1865):与頭に昇進(見廻組はほぼ只三郎に任されていた)
慶応2年(1866):2月8日ー京都文武場の開場、剣術師範に任ぜられる
慶応3年(1867):11月15日ー坂本、中岡を近江屋にて暗殺
慶応4年(1868):
1月3日ー鳥羽伏見の戦い勃発(戊辰戦争の開戦)、大目付滝川播磨守の警護を指揮
1月6日ー樟葉付近で見廻組の退却を指揮している際銃弾により負傷
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見廻組を率いて大阪、和歌山城を経由
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部下200名と共に和歌山の紀三井寺に入る
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兄の手代木に頼んで部下たちを和歌浦湾より江戸に返す(1月11日江戸へ)
1月12日ー只三郎、紀三井寺にて戦傷死(享年35歳)
5月15日ー上野戦争で土佐藩兵に囲まれ、末弟源四郎戦死(享年33歳?)
9月22日ー会津藩降伏